昭和24年 (1949年)10月、坂本吉之、有村松助、諏訪園末雄の3人は、それぞれ建設業界で修得した技術と、太平洋戦争時にマレーシア、シンガポール、タイ、インドネシア等各地の建設工事に携わった経験を生かし、3人の共同企業体である有限会社坂本組を創立した。
社員旅行で行った広島/坂本・有村・諏訪園
坂本吉之は、大正2年(1913年)9月生まれ。
鹿児島県立鹿児島工業学校建築科を卒業後、昭和6年4月、門司鉄道局工務部建築科に入社。 昭和17年5月に退職し、当時上海市にあった土木建築請負業の興南公司に入社している。
この会社には当時すでに諏訪園末雄が入社しており、二人は同じ職場で苦労を共にすることになった。
諏訪園末雄は、大正7年 (1918年)11月生まれ。
当時の満州にあった新京工業学院を卒業後、昭和16年5月に上海市の興南公司に入社する。その翌年には坂本が同社に入社し、二人は生涯志を共にすることになる。
昭和16年12月8日、太平洋戦争が勃発。大陸における建設請負業も、昭和18年頃から個人営業が困難になり始め、各請負業者が統合されて軍から工事を請け負う「軍建協力会」が結成されはじめた。
昭和18年5月、坂本と諏訪園は、シンガポール軍建協力会錦城班の一員として参加した。
有村松助は、明治44年 (1911 年)11月生まれ。
大阪市立高等工芸学校工芸科を卒業後、大林組の経営する内外木材工藝株式会社に入社。その後、大林組大阪本店やハルピン出張所に勤務後、朝鮮忠清南道で妻の実家が経営していた土木建築業・有村組の経営に参加し、昭和19年4月にシンガポール軍建協力会錦城班に参加した。ここで3人は出会うことになり、タイのクラ地峡での鉄道工事や中部スマトラ横断鉄道建設に従事した。
この軍建協力会錦城班は、連合軍の捕虜は使わなかったが、主にマレー、スマトラ、タイなどから集められた、多い時で約10万人の労務者と象を使役しながらの人海戦術で工事を進めていた。
タイの雨期は2月から5月までだが、雨の中をおして突貫工事を続けることもあった。戦時中のことで、作業の為の土木機械やトラックは不足し、河の中に竹筏を組んで、それにウィンチをのせて、手作業で木杭を打って橋脚を造り、橋を架けるという具合だった。
終戦後、軍建協力会錦城班全員がイギリス軍によって抑留され、収容所生活を余儀なくされた。初めはタイのバンクアン刑務所に収容されたが、後にシンガポールのチャンギー刑務所に移送され、そこで軍事裁判にかけられることになった。
イギリス軍は戦争犯罪者に対して過酷な扱いをする国だといわれていたが、当時のチャンギー刑務所の待遇は噂にたがわぬものであった。最初は大勢の者と、顔も判らないほどの薄暗い部屋の中に入れられて、冷たいコンクリートの床に毛布一枚敷いて休むという具合であった。軍事裁判が始まると独房に入れられる。独房はコンクリート製のベッドで、枕もコンクリー卜で出来ていて、それに毛布が二枚あてがわれた。電灯は24時間付けっ放しで、巡回がある度にドアのガラス窓を看守がノックするから睡眠不足になり、数日もすると正常な思考力がなくなってくる。
こうした過酷な体験を経てようやく無罪釈放となり、坂本吉之は昭和21年2月に帰国。 諏訪園末雄は、同年4月、有村松助は、昭和22年10月にそれぞれ帰国した。
西千石町付近 昭和30年代 坂本吉之は帰国後、名古屋にあった株式会社岩田工務店で働いていたが、軍建協力会の一員として大陸各地の建設工事に携わり、戦後の抑留生活を含む3年あまりを寝食を共にして生死を誓い合った仲の諏訪園、有村の二人と共に、昭和24年10月、有限会社坂本組を設立した。社長の坂本を中心にそれぞれが大八車を引っ張り合って現場に行き、コンクリートを練って工事を進めるという具合で、時には現場に泊まり込んで金の算段をするなど、苦労を重ねた。 終戦時の大陸からの引き揚げは困難に満ち、それぞれに大変な苦労をしているだけに、戦後の生活にかけた思いには必死なものがあり、何とか立ち上がりたいと皆懸命に働いた。
社員旅行で行った霧島温泉/昭和28年
当時の坂本建設の事務所は、鹿児島市の柿本寺交差点に近い所に小さい貸家があり、そこを借りて事務所にした。
創立当時の会計事務は、社長夫人である坂本郁子が担当した。資金繰りから税務書類作成まで昼夜を問わず誠心誠意会社の為に尽くし、その姿に社員ー同敬服したものだった。
当時は銀行も建設会社には融資をためらい、なかなか資金を貸してくれない。担保になる物件もなく、社長夫妻の苦労はこの面でも絶えなかった。創立当時、第一回の税務調査が滞り無く終わった時には、お互いに乾杯して祝った程であったという。
坂本郁子はこの後35年余り実務をこなし、コンピューターが導入され近代的な事務処理システムが確立されるのを見届け、第一線を退いた。
社員旅行で行った広島/昭和30年代 坂本吉之は、当時の日本国有鉄道の門司鉄道局の建築課に勤務していた経歴を生かして、鉄道関連の仕事を伸ばしていった。当時は戦後復興の為の工事量が多く、多忙を極めたが、自分たちの街の再建のために、皆懸命に働いた。 建築工事は有村松助、土木工事は諏訪園末雄と分担し、それぞれ県・市・各省庁などを仕事を求めて奔走した。 会社設立当初の仕事は、本駅(現在の鹿児島駅)構内のロープ倉庫、県庁駐車場、市営住宅の新築や修繕、鹿児島大学水産学部の職員住宅新築工事等を手掛けた。 土木関係では、国鉄湯の元駅構内の側溝工事や大口市の布計駅の改良工事等を手始めに、次第に各官庁工事を受注し信用を得ながら、民間工事の受注を増やしていった。
会社創立当時は、働くことが美徳の時代であった。早朝から仕事に向かい、夜遅くまで打ち合わせをして帰る。日曜祭日も働きづめで休まない。家庭のこともろくに省みない。なおかつ給料も、暮らしを支える程には持って帰らない。こんな事が長い間続いたが、社長坂本吉之の信念である 「誠実さと敢闘精神」 が次第に浸透し、「あの会社に仕事をしてもらえば間違いがない」という信用を得ることができた。 昭和25年から28年にわたった朝鮮動乱時の物価高騰や、昭和48年のオイルショックによる打撃も切り抜け、社長坂本吉之の人格の清廉さと統率力のもと、創業者3人が切磋琢磨しながらも一致協力して会社の成長に寄与し、共同事業として順調に発展していった。 坂本吉之は昭和58年5月号の社内報「ゆうかり」に、当時世間を騒がせた三越事件に題材を得て「社長はワンマンではいけない」というテーマで寄稿し、次のように述べている。 「ペルシャ秘宝展偽物事件に端を発した三越問題は、岡田前社長の特別背任や愛人問題までも表面化して、いまなお週刊誌等ジャーナリズムの格好の標的にされている。・・・・(一部略)・・この事件は経営者にとって、その在り方という点において大きな教訓を残しているようである。仄聞するところによれば、彼は諌言してくれる人物をことごとく排除し、自らの周囲を茶坊主的イエスマンばかりで固めて慢心していた姿勢が窺える。これでは社長の機嫌をとる為の甘い情報は入っても真の情報は殆ど入らない。こうした体制では社長としての的確な情勢判断は到底無理である。 この事は部下が上司に対して言いたい事が率直に言える上下関係が企業経営にとって如何に大切であるかを端的に物語っている。幸い我が社はこの点については全くオープンで、三役会議、常務会、役員及び社員研修会を行って、社員の意向は十分に反映され、いわゆる運命共同体となっている。 我が社も昨期は好調であったが本年は余程頑張らなくては決算が赤字に転落しそうな状態で、有村、諏訪園両者も猛烈に頑張って常務と一心同体でこの苦境を打開しようと一生懸命である。 ・・・(以下略)・・・」と。 会社の社風や当時の社内体制、業界環境が垣間見える一文である。
昭和59年3月、社長坂本吉之は会長に退き、有村松助が代表取締役社長に就任。次いで昭和62年7月には、代表取締役社長に諏訪園末雄が就任した。ここに、坂本、有村、諏訪園の3人の共同事業としての坂本建設は、順調にバトンタッチされていった。 しかし昭和62年5月1日、 坂本吉之は卒然として逝去。 寝食を共にし、生死を誓い合った3人と共に坂本建設を創立し、爾来、星霜38年。74年の生涯であった。 この間建設業界に活躍して、協会の副会長、支部長、相談役を歴任し、労働災害防止活動に携わり、建築士会副会長或いは商工会議所建設部委員長として活躍。これらの多年に亘る功績により、昭和50年11月黄綬褒章を受章。また昭和58年11月には勲五等瑞宝章を受章するという栄誉にあずかった。
その後日本経済は、高度経済成長、バブル経済崩壊といった転換期を経て、また経済のグローバル化と高度通信網の発達による高度情報化社会の到来、社会的な要請であった地球環境の保全と資源のリサイクル活用等々の課題を抱え、建設業界もまた大きな岐路に立たされていった。 激しく変化する業界の中で、その変化に対応出来るフレキシブルで活力溢れる組織であること。なおかつシンプルで、風通しのよい組織でありたい。運命共同体としての認識の深い坂本建設の全社員が、それぞれ個性を磨き役割を自覚し、高い目標に向かって挑戦をしていく職場環境づくりを目指したい。エコノミーからエコロジーの社会へと変わりつつあった時代、人と自然を大切にする企業イメージを確立していきたい。そういった様々な課題を胸に、建設業の将来を共に考え、社員一人一人が社会にどう貢献していけるかを常に考えていくことで、顧客の信頼を得、愛され続ける企業でありたいと念願した想いが、今の坂本建設に受け継がれているのである。
弊社は総合建設業のパイオニアとして地域の発展に貢献すべく活動を続け、順調に推移して参りました。